2012年12月16日日曜日

Column No.03  「ある会議の情景」 By 梅


「私たちの連絡会は、やはり数年前の蕨でのカルデロン一家、とくに中学生のN子さんに対する憎悪と醜悪さに満ちた在特会たちの嫌がらせに対する怒りから出発しているのだと思います。それは弱い立場に立たされた人間に対するほとんどいじめにも類する、とても卑劣な攻撃でした。しかし、それはそうであるけれども、だからといって私たちは彼らと同じスタイルでの対抗的行動を延々と政治的にやればいいということではないと私は思います。たとえ、そうしたデモンストレーションを繰り返しやったとしても、それは苦悩する当事者についに届くことのない身勝手な部外者の闘いであると思うのです。むしろ問題はさまざまな隠された小さなところで、限りなく進行する差別と迫害の現実に無力でありながらも、どのようにともに連携していけるのかという、そんな繋がりが問われていると思うのです。だから私たちは、パフォーマンスに対するパフォーマンスではなく、延々と続くこの私たちの地のおぞましい状況を、具体的なところからなんとかしたいとおもってここに集まっているのではないでしょうか。たとえそれが無力なものではあっても、やはりかすかな声は私たちでも出せるのだ。私たちの声のつながりを求める闘いはやはりそこにあるのではないでしょうか」

 Aさんが訥々と語る。その一つ一つの言葉にぼくは目を伏せながらある種の暗い思いを持ちながらもうなずく。そう、そうなんだ、それこそが僕たちの出発点だったのだ。それにしても、このある種の絶望感は何なんだろうかと自問する。
多分、私たちはとてつもなく困難な敵対者に遭遇し続けている。第一に、およそ「良心」というようなカテゴリーがまったく通用しない者どもに僕たちは対峙しているのだ。彼らの陰湿な精神は、あたかも影でいじめを楽しむような、そうしたひそやかな匿名性の愉悦に彩られている。これまで、口にすることもはばかれた言葉が跋扈している。つまり最後の良心がついに失われた地点で罵言が吐き出され、そのカタルシスに匿名性のネット右翼は酔いしれる。これは差別の状況の中でいつも見られた光景だ。そう、いつも繰り返されてきた光景なのだ。よく見つめてみるべきだ。

 差別や排外主義が跋扈するとき、特徴的な傾向がある。迫害された人間たちの沈黙と、迫害する人間たちの饒舌という非対照的な対比だ。ひとはひとを傷つけたとき、いくらでも傷つけたほうはそのことをリセットできる。しかし、傷つけられた沈黙者は、どのような言葉の展開が巡ろうと、そのことのうちにとどまり続ける。つまりその「裂け目」はどのような言い繕いがあろうとも残り続けるということだ。

 Aさんはこうも言っていた。「私たちは迫害される人を助けるために活動しているのではない」と。そう、この社会での不当なことにたいして、声高に「正しいこと」を叫ぶ前に、僕たちはそれを作り上げている僕たちの日常と闇に目を向けなければならないのだ。そうして、もし、苦難の中で悔しさと憤りを刻印されながらも、しかしなお「沈黙と沈思」にある友があったとしても、私たちはその「沈黙の闘い」にこそナイーブに反応し、傍らに佇まければならないのだ。なぜなら、その沈黙は私たちのものでもあったからだ。そしてもっと大事なのは、それは非対称的なもの、一方的なものではなく相互的なものでなければならない。佇んでいるつもりが、実は佇まれているということにひとは気づくべきなのだ。ひとは深刻な状況にあるとまず黙る。考える。解決は遠い。それでもなお、ひとは声を出す。なぜか。簡単なことだ。それだけ社会が腐っているからだ。スローガンには注意しなければならない。私たちは白馬の騎士ではない。登録商標には注意しなければならない。正しいことには気をつけなければならないのだ。

おおむね表現することが苦手な僕らのミーティングであったのだが、突然に前回のコラムに書いた信濃さんの言葉がぼくの脳裏に浮上する。それにはこうある。
「あえて言えば『差別・排外主義にまみれている』からこそ、それを克服するために活動しているのです。」
すがすがしい言葉だ。そして闘うことの意味としてぼくの情感にグサリとくる。
ひとを傷つける「快感」に比べれば、「良心」などというものはおそらく何ほどもひとをひきつけるものではないだろう。「通邸不能」という言葉が真っ先に鳴り響く。それでもやはり僕らはある最後の砦の上に屹立する必要があるのだ。私は通俗的でありいつでも憎しみの世界に陥落しやすい。でも多くの人がののしりの快感に酔いしれたとしても、100人のうちの一人であれ、私は孤立してもいいと思う。最近映像を作ろうとしているのだが、そこでは昔なつかしサルトルを引用した。

「彼らは憎悪を選んだ。憎悪がひとつの信仰となった。言葉と理性をはじめから無価値にすることを選んだのである。」(サルトル『ユダヤ人問題』)