パネリストとしてお話いただいたのは、川原栄一さん(ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク<略称:「のりこえネット」>)・新孝一さん(反天皇制運動連絡会)・武市一成さん(國學院大学講師)・藤田裕喜さん(「国連・人権勧告の実現を!」実行委員会)・堀純さん(部落解放同盟練馬支部)および当会メンバーTNです。
上記の企画趣旨でプログラムを組んだわけですが、今回の討論集会は私達にとって、もう一つ大きな意味を持つものでもありました。当会では、反レイシズム・反ヘイトの闘いの現状と課題について半年間に及ぶ内部討論を経て、その成果を『開かれた討論に向けて-私たちからの提案』(※)という1本の文書にまとめて公表しました。今回の討論集会は、その内容を多くの人に提起して意見交換をする最初の場でもあったのです。当会メンバーからの発題はこの「提案」に沿ったものであり、他のパネリストの皆さんからはこの「提案」と噛みあった形での発言もいただきました。
※『開かれた討論に向けて-私たちからの提案』は、当会発行の『Milestone 里程標』第3号に全文掲載されています。ぜひご覧の上、ご意見をお寄せ下さい。
まず、極右安倍政権によって国家主義的政策が強権的に推し進められている政治状況があるわけですが、それが社会レベルで深刻な影響をもたらしていることが、パネリストの皆さんのお話からよくわかりました。
戦前的な価値観で政治を右に持っていこうとする安倍政権に対して、戦後の平和な価値観を象徴するものとして「リベラルな明仁天皇」を持ち出すことで対抗しようとする一部の知識人がいます。その動きには、危機の深さを感じさせられます。戦前的な政治に「平和な象徴天皇制」を対抗させることは、この国の排外主義・民族差別が天皇制による侵略戦争・植民地支配によって作られて、今なおその歴史が清算されていないという問題を曖昧にする危うさをはらむからです。
また、自治体労働者の大きな左派系労働組合の幹部だった人間が、今はネット右翼になっているという話。地域住民の生活に密着した業務に携わることで市民の生活がよく見えるはずの人間が、人権を蹂躙する生き方に転落する。
これらの話からは、社会総体が右に大きく傾いていることがよくわかります。また、部落解放闘争を担う人々の中にも、本人はそれを問題だと気付かずに外国人への差別発言をしている人もいるという厳しい現実からは、この社会に民族差別が拭いがたく染みついてしまっていることを感じざるをえません。
さらには、地域社会が衰退して住民同士のつながりが希薄になることから生まれる住民の孤独感があります。その孤独感から、外国人への排外主義的な感情が地域に入りやすくなっている状況もあります。東京・大久保地域でのフィールドワークに取り組んでいる武市さんの指摘です。
社会全体がレイシズムに浸食されやすくなっていることが、パネリストの皆さんのお話しから理解できました。
この日、キーワードになった言葉が二つ。「日本の恥」と「仲良くしようぜ」です。両方とも、レイシストに抗議するカウンターの現場でよく見られる言葉です。
レイシストに投げかけられる「日本の恥」という抗議の言葉は、ヘイトへの怒りが道徳的国権論に絡め取られる危険があります。「仲良くしようぜ」のプラカードは、民族差別を考えるにあたって重視 しなければいけない日本人自らの加害者性を曖昧にします。
これらの論点は、レイシズムやヘイトとの闘いが、一歩間違えれば天皇制や国家という政治の枠組みに吸収されかねない危うさがあるということを感じさせます。
国家・天皇制・加害民族というのは、私達が否応なしにその枠組みの中に置かれてしまっている立場性です。そのことをきちんととらえ返して、これらの立場性をひっくり返す大きな方向性がないと、国家そのものがヘイト化する現状とは闘っていけないのではないかと感じさせられます。
国家・天皇制・加害民族というのは、私達が否応なしにその枠組みの中に置かれてしまっている立場性です。そのことをきちんととらえ返して、これらの立場性をひっくり返す大きな方向性がないと、国家そのものがヘイト化する現状とは闘っていけないのではないかと感じさせられます。
一方、別の次元からの見方も指摘されました。新大久保のニューカマー(新定住者)の韓国人で「(ヘイトは)日本人として恥ずかしい」という言葉はうれしいという人もいました。
また高校無償化からの朝鮮学校排除を考える時には、「(そのような事態を許してしまっていることを)自分はやはり日本人として恥ずかしいと思う」という発言もありました。「仲良くしようぜ」のプラカードも、カウンター現場で最初に掲げる時には、「人と人の関係としてみようではないか」という意味でいい言葉だったし、激しい憎悪の現場では当事者に向けては意味のある言葉であるという指摘。
これらは、いわば現場での直感的な感情でしょう。レイシズムと直面している現場で、人を行動へと動かして闘いを形作る感情があります。理不尽なものへの率直な怒り、人間としての連帯を求める本能的な欲求です。これらを外に向かって形にできる時、人は行動へと向かいます。国家・天皇制・加害民族という乗り越えなければいけない立場性と、それとは別次元の感情。その両者をどのように整理して闘いを作るのかを考えさせられます。
異なる運動領域の人達との連携をどのように作るかという視点では、国連の人権勧告を実現する運動やインターネットテレビ配信を主な闘争手段とする運動の実践から、示唆を受けました。
「国連・人権勧告の実現を!」実行委員会は、性的少数者への差別に反対するところから運動が始まって、他分野の活動をしている人達との出会いから活動領域を広げていきました。国連勧告の実現を政府に働きかけるという一点を運動の目的にしていることもあるのですが、そもそも異なる分野の活動が集まっているので、まずお互いを理解しようとする姿勢がなければ運動が成り立たない。それなので意見やモノの見方の違いが「(運動の)対立」にまでなることはないそうです。
インターネットテレビ配信を活動の柱にする「のりこえネット」は、できるだけ多くの人に問題を訴えることを主眼にします。「右に傾く日本を変える大きなうねりを作りたい」「右傾化する全体状況にまず反撃する」ということで、反レイシズムを基調としつつ、思想信条は問わずできるだけオープンに広げていく方法論を取ります。
闘いの現場にはいろいろな人がいます。反天皇制運動連絡会や部落解放同盟にとっては天皇制右翼とどのような距離をとるのかが課題になります。そしてそれは、朝鮮・中国への民族差別の原因が天皇制国家による侵略戦争にあると考える私達にとっても、同じ課題なのです。「現場では喧嘩はしないが、共闘もしない」というスタンスが、ほぼ共通のものでした。
最後に、あまり時間がなかったために論議を深めることができなかったですが、ヘイトの法的規制と表現の自由の関係についても話題になりました。
表現の自由の枠で語ると差別の問題が見えにくくなるのではないか(パネリストの方は「回収されてしまう」と表現されていました)という意見や、何が差別かについて社会的合意が得られたものがあるので、それについては法的規制がされてもいいのではないかという意見が出されました。法的規制については、「表現の自由」の視点からではなく、差別問題の視点から考えた方がいいということだと思います。集会参加者は65名でした。