2013年10月7日、京都地方裁判所において標記事件の判決公判があり、私たち差別・排外主義に反対する連絡会からは3人が傍聴のため京都入りしました。
(裁判に至る経緯)
2009年12月4日、在特会メンバーなどが京都朝鮮第一初級学校に対して、隣接する公園を不法占拠しているなどの言いがかりをつけ、学校周辺で聞くに堪えないような差別発言を繰り返しながら街宣を行った(第1回目)。翌年の2010年1月14日には再び同様の街宣を行い(第2回目)、同年3月28日にも執拗に差別をあおる街宣を行った(第3回目)。
2010年8月10日、威力業務妨害と器物損壊などの容疑で4人が逮捕される。2011年4月21日には4名に対し京都地裁は懲役1~2年、執行猶予4年の有罪判決を下した。
一方、上記の刑事裁判とは別に前記学校を運営する京都朝鮮学園は在特会とその関係者8名に損害賠償と学校周辺での街宣差し止めを請求する民事訴訟を起こした。今回の判決はこの民事訴訟についてである。なお、この民事裁判は19回行われた。
(入廷前の状況)
裁判の傍聴には何と179名もの人々が集まり、一般傍聴席は70人分しかありませんでしたので、100名以上の方が法廷外で待たされることになりました。幸い私は籤運に恵まれ、法廷に入ることができましたのでその報告をします。
先にも述べましたように一般傍聴席は70名で満杯、記者席も1 6名分用意されていましたが同様に満席でした。なお、一般席の傍聴人はほとんどが原告側の支援者と思われました。一方、被告人は川東大了と八木康洋の2名しか出席していません(被告は在特会と8名の個人)。
(判決の概要)
先ず結論から言えば、判決については原告側の主張を大幅に認めるものでした。ただ、原告側の主張の大きな柱であった「民族教育権」については全く触れられていませんでした。玉に大きな瑕が付いてしまった、の感があります。ともかく、以下にその概要を記します。
被告人らによる3度の襲撃について判決は明確に被告側の違法性を認め、賠償額を明示しました。
・第1回目(2009年12月4日)については5,547,000円(千円未満については聞き取れなかった、以下同様)
・第2回目(2010年1月14日)は3,415,000円
・第3回目(2010年3月28日)は3,300,000円
そしてそれらには年利5分の割合の利子も付け加えられているので、総額は1,200万円を超える多額の賠償額が命じられたことになります。
この判決の根拠になっているのが、人種差別撤廃条約でした。もちろん、この条約は肝心の第4条部分(「人種的優越又は憎悪に基づくあらゆる思想の流布」、「人種差別の扇動」等につき、処罰立法措置をとることを義務づけるもの)がこの国では留保されていているのですが、しかし判決は敢えてこの条約に依拠することで、被告人らの一連の言動を明らかな人種差別と認めたのでした。そしてその責任の重大さを多額の賠償金に置き変えたものでした。
つまり、判決は被告人らの言動が明らかな人種差別であると断罪したのです。この国では数少ない判決の一つではないでしょうか。
また、この多額の賠償額に加えて、被告人らの学校周辺での街宣行動などについても制限が加えられました。
しかし、一方で原告側が繰り返し主張した民族教育の重要性とその権利については全く触れられていませんでした。人種差別の悪質性を厳しく断罪する一方で、それと表裏一体の関係にある「民族教育権」への言及は何もなかったのです。その意味では残念な判決と言わざるを得ません。
もっとも、それに言及することは朝鮮学校を高校無償化から排除することの悪質さ、理不尽さを浮き彫りにしてしまいかねない恐れもあるので、あえて触れなかったということかも知れません。
もう1つ判決の中で特筆したいのは、常に撮影に携わっていたブレノ(松本修一)の扱いについてです。自分は関係ないと主張し刑事裁判では有罪を免れた彼ですが、この民事裁判においては明らかな責任が認められたのです。他の者たちが示威活動をしている状況を映像に撮りそれを公開することについて、両者は密接に関係していると、認定されたのでした。当然と言えば、当然のことです。
いずれにしろ、11時に始まった判決公判はあっという間に終わってしまいましたので、必死でメモしたのですが充分とは言えません。それに判決文そのものも見ていませんので、詳しい報告は出来ませんが、以上が判決の概要です。
(判決報告集会)
判決の後は場所を近くのホテルに移し、12時から判決報告集会が行われました。この集会にも、平日の昼間であったにもかかわらず、約150名が集まり大盛況でした。また、マスコミ関係者もたくさん来ていました。それはこの裁判の判決がこの国の人権問題に大きくかかわってくるだろうことが予想されたからでしょう。実際、この日の京都新聞の夕刊には、この判決についての記事が一面のトップに書かれていました。トップとは言わないまでも他の多くの新聞にも取り上げられ、ヘイトスピーチに対する規制の是非が論じられたのです。
話を判決報告集会に戻します。会場のスクリーンには9月22日に行われた「東京大行進」のビラや横断幕などが映し出されていました。と言うのも、京都朝鮮初級学校の児童たちが作成した作品がこのデモ行進にも登場していたからです。この横断幕には「ヘイトクライムのない社会を 民族教育権を保障しよう!」と書かれ、判決の直前にこどもたちのカラフルな手形が追加され、判決当日には京都地裁前に高らかに掲げられたのです。まさに未来を担う子どもたちの切なる思いがこの一枚の横断幕に凝縮されたものと言えます。
それらをバックにこの集会が始められ、その第一声は差別・排外主義に反対する連絡会から発せられました。勿論、私たちがでしゃばった訳では全くありません。司会からの指名でした。因みに、連絡会は19回あった公判のうちの17回について、傍聴に参加しました。
9月22日の東京大行進とそれに続く9.23Actionについて簡潔にまとめて報告、満場の拍手に迎えられました。続いてオモニ会の学習会が「醍醐」の新校舎で行われたことの報告があり、徳島県の教職員組合からは徳教組襲撃事件についての民事訴訟裁判が10月25日から行われること、10月28日からは第2次の刑事裁判が行われると報告がありました。引き続き、大阪からは朝鮮高校の無償化排除と補助金カット(橋下市長が原因)に対して裁判を起こしていると報告されました。最後に、醍醐に移転した新しい学校で、この校舎では初めての運動会が行われたと報告され、支援者からの発言が締めくくられました。
次にこの集会のメインである、弁護士による判決公判の報告やこるむ(在特会による朝鮮学校襲撃事件裁判を支援する会)からの発言がありました。なお、この発言については全て省略させていただきます。というのは、ここで発言いただいた主な内容については、前述した判決の概要の中に反映させており、重複するからです。
(襲撃事件のあった当時の学校訪問)
かくして、13時30分には判決報告集会も全て終了しましたが、私たち3人は昼食の時間も惜しんで、そのまま襲撃されたかつての京都朝鮮第一初級学校に向かいました。学校は既に解体作業が始まろうとしていましたが、足場が組まれているだけで、幸い当時のままに残されていました。また校舎の目の前にある、問題とされた公園には誰一人おらず、静寂というよりは侘しささえ感じられました。そこには、かつての嫌がらせ状況を脳裏に浮かべる私たち3人が佇むのみでした。
(判決への想い)
子どもたちの心に深いキズを負わせ、その保護者にも絶望的なほどの悲しみとやるせない憤りをもたらしたこの襲撃事件は、多額の賠償金という形で締め括られました。しかし、その高額な賠償額の意味するものは何なのか、被告人らがその本質を理解したとは到底思えない。物事の本質を彼らが理解しえない、あるいは理解しようとしない土壌がこの国には蔓延しているからでしょうか。そのような根は確かにこの社会に今までもなかったわけではない、しかし戦後70年近く経った今、私たちの日常生活を脅かすほどに公然化したことに言い知れぬ恐怖を感じざるを得ないのは、果たして私だけでしょうか。
この判決がただ単に「臭いものにふた」になってしまわないことを願いたい、逆にこの判決がそうした風潮を一掃しうる第一歩になって欲しいと心から望むものです。
2013年10月11日(金)
Report by KB